しゃっくりと進化論

 今は午後3時。コーヒーの時間だ。豆から挽いたとき漂ってくる香りに思わず仕事の手を休める。芳香なアロマはいろいろな情念を掻き立てるものであるが、今日はどういうわけか独身寮時代を思い出した。独身男にはカビが生えると言うが、私はキノコを生やしてしまったことがある。あれは梅雨時だったが、久しぶりにコーヒーを煎れようとしてコーヒーメーカーの蓋を開けたところ、捨てるのを忘れていた前の豆カスが温床になってかわいいキノコが数本生えている。これを見つけたときはさすがにびっくりして生活態度を反省したものだが、なるほどそこいらの空気にもキノコの胞子が健気に飛び交っているのだな、と妙に感心したりもした。
 ところで独身寮には猫がつきものである。餌をやってかわいがる寮の住人が結構いるものだから、身寄りのない猫がすぐ居着いてしまう。私も例外ではなく鰹節を与えたりしてかわいがっていたので、ノック代わりに「ニャー」という挨拶で始まる猫の来客がときどきあった。
 思いがけない発見をしたのはその頃である。皆さんは猫がしゃっくりをすることを知っているだろうか? 私は猫がしゃっくりをすることを見出したのだ。そればかりではない。人為的にしゃっくりを起こさせる方法も発見した。そのノウハウを特別公開しよう(あまり実行を勧めるつもりはないが)。まず、鰹節の袋の下の方に溜まっている粉状の削りカスをなるべくたくさん床に降り注ぐ。そこに腹を空かせた猫を呼んできて、食べさせる。猫が我を忘れて鰹節を舐めまくっているときに、ここが肝心なのだが、人工呼吸の要領で背中をリズミカルに押してやるのだ。すると粉状鰹節を鼻から吸い込むからか、理由ははっきりわからないが、猫はしゃっくりをしだすのである。記憶によればこの実験の再現性は50%を上回っていた(ただし複数の猫に対して実験を行っていないので、その個体特有の体質かもしれない)。どうしてこんなことを発見できたのか、今もってよくわからない。これで「かわいがっていた」と言えるか疑問だが、その後も同じ猫の来訪が続いたことを考えると、かわいがっていたのだろう。
 ところでそのとき思ったのは、しゃっくりを引き起こす遺伝子というものがあるとすれば、それは人間と猫が分化する前に既にあったのだな、ということである。これは横隔膜ができたと同時に発生した遺伝子なのかも知れない。それなら、他に検討すべきその類の仕草はないだろうか? くしゃみはどうだろう。犬がくしゃみをすることはよくある。だからこれは人間と犬が同じ動物だった頃からのものだろう。鼻で呼吸する気管系に付随する仕草かも知れない。笑うことはどうか? これはかなり高度な仕草と思われる。人間以外では、霊長類のうちでも高等なものしか笑わないのではないか。あくびは? これは猫もするから、しゃっくりと同レベルの仕草か?
 こう考えて行くと、仕草による進化論的系統分類図が描けるのではないかとすら思えて来る。進化と関係がある仕草の最たるものは「まばたき」であろう。これは魚類が両生類になって地上へ進出したときにできた遺伝子に違いない。水の中ではまばたきの必要はないが、空気中では眼球が乾燥してしまうのでまばたきが不可欠である。漫画でウインクしたりする魚を見たことがあるが、あれはウソである。
 こう書いていて、ふと、貧乏揺すりをしている自分に気が付いた。この遺伝子は何なのだろう。マウスかハムスターみたいに膝を揺すっている。哺乳類の始まりは恐竜時代の後期に発生したネズミ類だったというが、恐竜に隠れるようにせわしなく生きていた頃の名残なのかも知れない・・・
 などという空想を掻き立てるもとになったコーヒーの香りが再び漂って来て我に返った。さて一杯飲んで仕事に戻ろうか。


[最終稿:1998年10月26日]


前ページ(サイエンス・エッセイ)に戻る
ホームに戻る