南方熊楠の足跡を訪ねて[2012年3月20日]

 大阪に赴任してからこのかた、南方熊楠の足跡を追って和歌山県を訪れたいという気持ちがずっとあったが、このたびそれが実現した。南方熊楠は博識の自由人研究者で、世界放浪のあと田辺市に定住。日本人としてネイチャーに論文を発表した黎明期の人で、ネイチャーの論文数だけでも日本人として記録的と言われる。世界に飛び出して活躍した点で似たものをを感じさせる野口英世より9才ほど年上である。

 熊楠が粘菌採集の拠点とした和歌山県に熊楠ゆかりの施設があることを知っている人も、南紀白浜町に熊楠記念館、田辺市に熊楠顕彰館と、隣町に計2つの施設があることはあまり知らないであろう。今回両方とも行ったが、まず熊楠記念館を訪ねた。南紀白浜といえば白い砂浜の海水浴場のある温泉地として知られている。早春だから人はいまいと思っていたが、思ったよりはいた。しかも泳いでいる人がいた。日差しは春だがまだまだ気温は低い中、ウェットスーツも着けずにである。この南紀白浜、なんでも40年ほど前は熱海と並ぶ新婚旅行のメッカだったそうで、確かに熱海を小ぶりにして猥雑さを無くしたようなところである。熱海ほどホテルがところせましと林立してはいないため、景色の見通しがよく、大変風光明媚である。遠く四国も見え、その手前に大きな船が数多く水平線すれすれに往き来している。少し手前に見える陸続きの崖は草木を冠していて、近くには浅瀬を浸す透明な海が目の前まで来ている。わずかに波がくだけて白波のところもあり、ドビュッシーの音楽を思わせる風景だ。
 この熊楠記念館、門から緑深い清々しい小道を行く。さらに急な坂道を歩いて数分、その先は海に続く崖に続く最高地点にある。山歩きして頂上に着くときのときめきにも似て、ちょっと登頂のありがたみを感じる。それほど大きくない二階建ての建物で、展示は二階だけなので、施設としてはかなり小さい。しかし展示の内容が充実していて展示の仕方もうまく、じっくり楽しめる。まず入り口にある熊楠の生涯に関する予備知識のビデオが非常にわかりやすく、これを見るのと見ないのとでは中の展示のイメージが大部違うであろう。基本的には熊楠の生涯の展示であるが、資料や生物標本、それに多種の粘菌の実物やその珍しいライフサイクルの解説がぐいぐいと興味を引っ張る。
 おまけとして、この建物は屋上に出ることもでき、これがまた「360度パノラマ」という謳い文句を裏切らず、のどかな白浜の街や海辺、それに水平線と遠くは四国を孤高の丘から見渡す絶景だ。そして帰りは当然下りだが、粘菌というものがどんな姿なのか、いろいろな種類の標本や図を見たあとだから、熊楠が採集したように我々もそこいらに見つけられないかと目を凝らしながら散策を楽しんだ。

 ところで粘菌には変形菌(または真性粘菌)と細胞性粘菌がある。粘菌の知識がある者が同行者に含まれていたのでかなり理解の助けになったが、森の中でも人間が目視で容易に認識できるのは変形菌の方で、カラフルだったり見てくれが様々だったり、同じものでもライフサイクルで全く違って見えたりして、素人にも興味深い。これに対し細胞性粘菌は基本的に顕微鏡が必要で目視では発見できない。南方熊楠が研究したのは変形菌で、細胞性粘菌の存在はおそらく熊楠は知らなかっただろうという記述があった。

 ところで熊楠と関係ない話題を一段落入れるが、この記念館の隣の敷地は、京都大学白浜水族館である。もちろんそれも見た。大阪の海遊館ほど大規模ではないが、様々な生きものを、それらがいるであろう環境をよく再現した環境の中で見ることができる。花壇の様々な花のように岩にくっついているのによく見るとうごめいている動物は、なにも珊瑚だけではない。なぜこんなにいろいろな生物がいるのかと思う。ちょっと面白いのはところどころに電球付きのルーペが置いてあることだ。電球はもちろん明るくして見るためのものだが、反応を見るためでもある。たとえばアワビのたぐいに「光を感じる目がいくつもあるので光をあててみてください」などとある。こういうのは初めて見た。この水族館も熊楠も生物学という共通点があるので、昭和天皇がこの水族館にご臨幸されたり、神島(かしま)で熊楠が昭和天皇にご進講したというのは自然な成り行きであろう。

 さてもう一つの熊楠施設である田辺市の熊楠顕彰館、これは熊楠の最後の居住家屋の現物とその敷地内に立つモダンな展示館から成る。こちらの展示館は記念館より展示の仕方がハイテクで、二階は小さな図書館風でもある。ハイテク展示ということで少し話題が逸れるが、粘菌のイメージを立体ホログラムにしてあった。ホログラムのいいところは裸眼でどの位置からも立体的に見えることだ。ところでそのホログラムの作者をふと見ると、久保田敏弘。なんと、知っている人だった。
 熊楠最後の住処は、熊本市にある夏目漱石の家や大分県竹田市の瀧廉太郎記念館にも似た木造家屋である。違いは離れの納屋に大量の標本があることで、これは展示用というよりはなにか正倉院みたいな倉庫という感じだ。外気を入れたいためか戸が開放してあり、そこから中を覗くようになっている。興味深かったのはこの家屋の管理人をしている婦人。少し質問したらいろいろなことを話してくれて、結構長話をしてしまった。大変突っ込んだ興味深いお話に交えて、普通展示の説明には書かないようなことも話してくれて大変おもしろかった。たとえば熊楠の娘さんが12年前まで住んでいたが、亡くなると血筋が途絶えたので田辺市に寄贈して顕彰館にしてもらうよう手はずを整えて亡くなったが、当時の田辺市長とその周辺はそれを行わなかった(が市長が代わって実現したのだろう)という話。田辺市の顕彰館と白浜町の記念館が結局は別々の独立した施設になってしまった話。熊楠自身の性格はすぐそばの人達にとっては難しい性格の人だったらしいという話、など。

 さて展示の内容や熊楠自身の研究について今回あまり書かなかった。それは少し調べてもらえばわかることだし、結局は受け売りになるから。それより違った視点でちょっと感想を一つ。
 私が興味を持ったのは、南紀白浜町の熊楠記念館にしても田辺市の熊楠顕彰館にしても、財政的に難なく続けられる状況にあるのかという点である。上記の婦人にも少し訊いてみたが、詳しいことは知らないようである。しかし最初の市長が断ったというのが少し暗示している。京都大学白浜水族館にしても、その気で見ると「いかにこの施設が意味があるか」を強調している説明も見当たる。近くの神社もそうであるが、「天皇陛下行幸」の碑や説明文が目立つようにあるのも、やはり意義を強調しているようにもとれる。たとえば千代田区の憲政記念館などは、どんなに閑古鳥が鳴いていて赤字経営だろうと、絶対壊してはいけない施設であることは納税者もわかるだろう。だからわざわざ存在意義を強調したりしていない。しかし昨今、普通の施設はいつリストラにあうかわからないと心得なければならない。京都大学の水族館はまだいいかもしれない。しかし人口8万人足らずの田辺市や人口2万人ちょっとの白浜町にとって、小ぶりではあろうが博物館のようなものを維持するのは簡単ではないかもしれない。この文を読んだ諸氏におかれては、是非とも熊楠顕彰館と記念館を訪れて、盛り上げて行って欲しいものである。私も今度は熊野古道を歩いてみたい。

[2012年3月20日 記]


前ページ(サイエンス・エッセイ)に戻る
ホームに戻る